2021/07/10 語と命題

「赤」は語であり、「これは赤い」は命題である。「赤」の意味は赤いものを見ることによって示される。「これは赤い」は特定の事態を表現する。「赤」は定義される。「これは赤い」は分析されうる。定義と分析は明確に区別される。

「こうしたあり方をしている点で、「赤」の意味と命題の意味ははっきり違います。」
ーーラッセル「論理的原子論の哲学」p.37

 

2021/07/02 ラッセル「現代哲学」つづき

第19章は内観であるが、そのラッセルの見解は私とは少し違うようなので、私は整理し直すことができなければならない。ラッセルの見解は、そのアプローチは大変妥当だと思う。これらの見解が現代哲学で取り上げられていないらしいのは不思議である。よって、だからわたしは逆に現代哲学のメインの潮流についていけない。それはまずいことだと今までは思ってきたが、もはやそうでもなさそうだと思い始めている。どのように考えてもいいのが哲学である。その寛容さとフェアネスに期待しよう。

 

2021/07/01 ホタルの羽ばたき

昨夜はホタル祭りの当番だった。下村さん、山田さんと三人。川から少し離れた空き地のテントで案内と監視をする。地方新聞の記者がカメラを持って現れて、小林さんですかと聞いてきた。どういう関係か推測だが、小林さんが投稿でもしたのではないか。いい写真が撮れたら小林さんに話を聞きたいという。暗がりに降りてしばらく写真を撮っていたが、上がってきた所でモニターを見せてもらったら、薄くかすかに光る程度にしか写っていない。残念だがこれでは記事にするのは無理だ。それでもまた来ると言って帰っていった。

昨日はひどく寒かった。ホタルは十数匹出ていたが、飛び回る元気はなかったようだ。帰り際にもう一度見ておこうと川べりに行くと、一匹、目の前を飛んでいたのがあって、近くの柵に止まった。手のひらを近づけると、手の方に移ってきた。そのままほかの二人のところに戻って、ホタルだよと言って見せた。片側がオレンジ色である。いままでオレンジ色のところが光るような気がしていたが、逆で、反対側のお尻が光る。オレンジ色の側は頭であった。しばらく三人でみていたが、そのうちにホタルは翅を開き、羽ばたいて手のひらから浮かんだ。翅の動きが連続写真のようにみえる。でもなかなか離れようとしないので、ほら、行きなと言って手で押すようにすると、ようやくテントを出て暗い中に消えていった。

 

2021/06/29 大人の文章

ラッセル「現代哲学」p.255

「良い観察者は、自分の反応のうち、自分に固有のことには触れない。「小さく単調な光がチカチカし、目が疲れていらいらした。最終的にそれはしかじかの所で落ち着いた」などと言ったりせず、単に「値はしかじかだった」のように言うのである。こうした客観性はすべて訓練と経験のたまものである」

これは物理科学的事実の観察者の態度に言及した箇所である。しかし、そこで思いついたことがある。この態度は、「観察者」を「文章」に置き換えて、成立しそうではないか。

昔、妻に文章を添削してもらったとき、徹底して指摘されたのは、この「表現の客観性」ということだったのではないか。

 

2021/06/25 ラッセル「現代哲学」三たび

また書くが、ラッセルの「現代哲学」第12章の見解が、それこそ現代哲学において主流でないらしいのは、ほとんど信じ難い。人間の歴史には、ばかばかしいことが多々あるが、ラッセルのこの言説を注目しない哲学学者たちとは一体どういうものなのか、あきれるばかりである。これほどまでに明瞭に核心を突いているラッセルの言説に、私は心の底から納得する。これこそが私が追い求めていた哲学である。もっとも、まだ読んでいる途中なので、全体を見渡したらあとで訂正を入れるかもしれない。しかしいまはこの第12章を、感動しながら読んでいる。

 

2021/06/24 行動主義の破綻

ラッセル「現代哲学」第12章、p.194

「そしてさらに問題なのは、ラットの身体運動を知るためには、我々はまさにワトソン博士が避けたいと思っている類のデータ、すなわち自己観察する人にとっては明白だが、その人以外の誰にとっても明白ではない私的なデータから出発せざるをえないことである。私の考えでは、究極的な哲学としての行動主義はここで破綻する。」