ラッセル「現代哲学」について

まだ4ページ読んだところだが、この本はいい。第1章は入門書だが、こんなに美しい、理にかなった入門書はなかった。でもそれは、私にとって、と但し書きが必要かもしれない。訳者の高村夏輝さんが言うとおり、ラッセルは現代哲学では忘れ去られているか、誤解されている、らしい。もうすでに過去のひとで、現代的な有意味な議論は彼にはなく、しかもウィトゲンシュタイン によって、その哲学を理解できなかった俗物とされている。そのように放り出されているラッセルであるが、高村さんがそこを掘り起こし、時代の趨勢に流されることなく、ラッセルが、ちゃんと読み込めば大変有効な議論をしているということを、孤軍奮闘して世に問うている。わたしは賛同する。

言語哲学とは方向が違うということのようで、彼の1920年代以降の哲学は、経験論から言語哲学への流れからは素通りされた。そして本流の言語哲学が向かった先はクワインデイヴィドソン、あるいは日常言語学派の方である。しかし個人的にはその方向に豊かな稔りは期待薄と思っている。わたしはダメットだったかの本で、ラッセルを引用した一節に、私的言語に類似しているがそれとはちょっと異なると思う文章を読んだ。その文章が気になって調べた結果、「論理的原子論の哲学」の中にある文章だとわかった。本文中の出現箇所も特定した。そしてこの本を翻訳していたのが高村夏輝さんである。そこを手がかりにして、その手がかりを手放さないように注意して、私はラッセルを再読することにした。そしてラッセルの考察が私向きであることを知った。わたしは高村さんに倣って、現代の哲学の動向に影響されずに、この直感を信じてみたいと思う。